1年間のワーキングホリデーを終えて
オーストラリア国内旅行を終えて、日本に帰国。ついにワーホリが終了しました。
今でも信じられないほどあっという間に過ぎ去った1年でしたが、それは新しいことにひたすら出会い、充実した時間を過ごしたからではないかと思っています。
2017年3月。帰国した日のことは今でも昨日のことのように蘇ります。
空港に降り立ち、ありとあらゆる日本語表記や見慣れた街並みを目にした時に「日本に帰ってきたんだ」と実感したこと、僅かな安心と既に1年が経過した衝撃と再び日本での生活が始まる事実に、何とも言えない不思議な感覚を覚えました。
ワーホリのきっかけは現実逃避!?
日本は安全で住みやすい国。
海外からはそんな高評価を受けていますが、確かにこれは間違いありません。
犯罪や内戦が多発する国や独裁国家など、世界には「安全に暮らす」ことさえも困難な国が存在するので、その点では日本はとてつもなく恵まれた国ではないでしょうか。
ただ、生まれ育った国だからこそ考え方や文化などのネガティブな部分も見え過ぎてしまい、日本で暮らすことを窮屈に感じたり、未来に期待を持てなくなってしまうことも事実。
特に社会人になってからは、毎朝、満員電車に揺られて会社へ向かう日々に「何のために生きているのだろう?」と、ふとそんなことが頭をよぎる日もありました。
何か新しいことを始めたくてワーホリを決意したことは嘘ではありませんが、今思えば、現実逃避をしたかったのではないかとも思うのです。
暮らすことで知ったオーストラリア
ワーホリ生活の1年間を一言で表現するならば、まさに ”人生のターニングポイント”
なぜなら、海外の異なる文化に身を置いたことで、今まで日本で培った考え方、いわゆる「価値観」を大きく変えるきっかけとなったから。
オーストラリアは一度旅行したこともあり、自分なりのイメージを持ち合わせていましたが、実際に暮らして、人々の振る舞いや考え方、そして文化に触れてみると、そのイメージとはかなりかけ離れていたことに気が付きました。
ちなみに、西洋文化といえば
・YES、NOや自分の考えをはっきりと主張する
・あくまでも、他人は他人、自分は自分
・相手の思いを察して行動する思慮深さは皆無
「常に自分の考え方や主張が重要!」なイメージばかりが先行していましたが(確かにこのような考え方もなきにしもあらずですが)、より深くオーストラリアの文化を知ったことで、自分自身の考え方や価値観は大きく変わってしまったのです。
①マナーは最優先事項
まず始めに知ったのは、電車やトラムなどの公共交通機関を利用する際のマナーについて。
オーストラリアの公共交通機関には日本ほど多くの優先席は設置されていませんが、それでも問題はありません。
その理由は、学生もタトゥーが腕にびっしり入った若者も、誰も彼もが席を譲るから。たとえそこが優先席でなくても、お年寄りやこどもが乗車してきたらさっと席を譲るのです。
それが「マナー」だから。
そして、譲られた側はその席が必要であってもなくてもお礼を一言。
これも大事な「マナー」だから。
それから、人の前を横切る時には「Excuse me.(失礼します。)」
出入口で人と人とが鉢合わせた時には、相手のためにドアを開けて「After you.(お先にどうぞ。)」
他にも挙げたらきりがないですが、こうした「相手を気遣うためのマナー」を大切にする文化がオーストラリアには根付いています。
②コミュニケーションは大切なこと
街中や電車などで見ず知らずの人と平気で会話をしたり、また、少し郊外へ行くと道端ですれ違う人に対して挨拶をしたりと、社交的な人が多いオーストラリア。
幼少の頃からの教育が社交性を形成させているように思うのですが、そう感じたのはホストファミリーとの生活がきっかけでした。
ファミリーには3歳になる男の子がいたのですが、みんなで動物園に行った時にひょんなことから機嫌を損ねてしまった彼。そんな彼に店員さんが話しかけたのですが、不機嫌な彼はそれを無視しました。
すると、お母さんが彼に一喝。「相手に話しかけられたら、答えるのがマナーでしょ?」
そうです。相手とコミュニケーションは大切なことで、シャイになったり、恥ずかしがることも含め、相手の問いかけに反応しないことはマナー違反になるのです。
③人の目を気にするなんてナンセンス!
メルボルン中心部(CBD)には、路上に暮らす人々が多くいました。
ここ数年で人数が増えたそうですが、ホームレスになっても希望を捨てないオーストラリア人。路上生活に至った経緯や今の自分に必要なことをダンボールに書き、人が絶えず通り過ぎる街中で掲げることで救いの手を求めます。
そして、救いの手を差し伸べるのもまたオーストラリア人。近くのスーパーやファーストフード店で食料を買い、ホームレスの人々とシェアしながら路上に座り込んで話を聞いたりと交流するのです。
こうした光景は頻繁に目にしましたが、初めて見た時には衝撃を受け、そして感心もさせられました。
困っている人に手を差し伸べるという行動は、信仰する宗教が少なからず関係しているようにも思いますが、基本的に人の目を気にせず、自分が良いと思うことは躊躇せずに行動に移すのはオーストラリア人の特徴。
その根底には「誰かが行動してくれるのを待つ(他力本願)のではなく、人生は自分で責任を持って選択して切り開いてゆくもの」という考え方があるように思います。そのため、ただ相手に期待するだけや合わせるだけの人は ”Boring(退屈な人)” にさえなり得ます。
やはり、他人は他人、自分は自分の精神で、人と比べることもあまりしません。
そもそも人口の大半が他の大陸から移り住んだ移民国家(本来の意味でのオーストラリア人は先住民(アボリジニ)くらい)なので、隣の人とは目の色、髪の色、肌の色も違ければ、信仰する宗教も違い、比べるなんてナンセンス。
「人と違うことなんてもはや当たり前」な背景も、人の目を気にしない理由なのかもしれません。
④仕事は好き!でもたかが仕事
「今の仕事は好き?」と尋ねると、口を揃えて「好き!」と答えるオーストラリア人。
それでも週末が近づくと事情は変わり、
「Just a job. Let’s go home!(たかが仕事。残業なんかしないで、とっとと帰ろうぜ!)」
基本的に楽天的なので、多分「I like my job.」も「Just a job.」も正直な感想で、嘘ではないはずです。
オーストラリアではサービス業でもほぼ時間通りに仕事は終わります。
ワーホリ中に私はメルボルン中心部(CBD)のカフェで働いたことがありましたが、カフェの閉店時間は18時なので、17時半頃から少しずつ店内の片付けを始めつつテイクアウトのみの対応とし、18時ちょうどに入口のサインを「Closed」に切り替えます。
閉店間際に入店しようとする客がいれば「18時で閉店です。」とはっきり伝え、すると「気付かなくてごめんなさい。」とそのまま店を出て行きます。
客はあくまでも客であって、神様ではありません。店員と客は常に対等な関係なので、下手にへりくだる店員もいなければ、異常に傲慢な客も存在しません。
そんな文化であれば、サービス業であっても残業ゼロは実現可能です。
それから、オーストラリアの企業では1年間働くと1ヶ月近い有給休暇が付与されるため、その休みをそっくりそのまま利用してバケーションへ出掛ける人が大勢います。
正直これが ”普通” なので、周りに気を遣う必要もありません。自分も休むけれど、相手も休むのだからお互い様。互いに協力し合うことで、長期のバケーションを実現させています。
仕事とプライベートは完全に切り離して考えるのが、基本的なスタンス。プライベートを犠牲にしてまで働くことはなく、だけど嫌いなことに時間を費やすほど人生は長くないから「好き」と思える仕事に就くのでしょう。
以前に「Karoshi(過労死)」が翻訳されることなく英語辞典に載ったことで日本の働き方が話題になりましたが、こうした思考回路の彼らにとって「働き過ぎて命を落とす」ことはもはや頭にもないのです。
日本特有の文化 ”周りと同じ” は窮屈!?
「周りと同じならばとりあえず大丈夫。」
幼少の頃から、服装や髪型、振る舞いまで、隣の人と同じであることを求められる日本の教育を見れば、このような考えが生まれることは不思議ではありません。
周りがしていることをしない、または周りがしていないことをすれば、”異なる人” と判断されるリスクがつきまとうので、日本人にとって「人の目を気にしない」のはとても難易度の高いこと。
海外では、日本人は ”Polite(親切で礼儀正しい)” として有名ですが、実際のところは ”異なる人” にならないように周りと同じように振舞うことが、結果的に礼儀正しく映っているだけなのかもしれません。
周りと同じでいることは一見、楽で安心にさえ思えますが、YESとNOそして自分の考えを主張しづらくさせ、結果的に人々を窮屈にさせているようにも思えます。
1年間のワーホリ生活でオーストラリアの文化にどっぷりと浸かってみた結果、私にはこの ”周りと同じ” 文化が、限りなく日本特有で風変わりなものとして映るようになってしまいました。
一度きりの人生!変わるならば、自分から
辿った歴史が違えば文化も異なるのは当然のことで、日本に他国のような文化を期待しても現実的ではないし、その反対も然りです。
また、何事にもメリット・デメリットは存在するので、違いを比較して良い悪いのジャッジをすることもナンセンス。
結局のところ、変わることができるのは自分だけ。
どんな文化で育ったとしても、異なる文化に飛び込んでみることで新しい価値観に出会い、良い部分を吸収しながら自分を変えていくのは可能ということです。
一度きりの人生を人の目に縛られて窮屈に生きるよりも、「自分はどうしたいのか」「どんな自分でありたいのか」を考えて生きる方が価値あることではないでしょうか?
人生はあなたのもので、誰か他人のものではないのです。
渡豪前の私の敵は、結局のところ「 ”周りと同じであるべき” という価値観から抜け出したくて、抜け出せなかった自分自身」に尽きるのですが、これは異なる文化に身を置いたからこそ炙り出すことができました。
私は帰国して再度仕事に就きましたが、環境が変わったばかりではなく、働き方や仕事に対する考え方も以前とは遥かに変化したと感じます。
また、海外に出て客観的に日本を見たことで、良い部分にも目を向けることができるようになったのも事実です。
ワーホリ = 海外に遊びに行っただけ?
正直なところ、語学を習得したいのであれば学生ビザを、仕事をするのであれば就労ビザを取れば良いはず。
その狭間で30歳以下に無条件に与えられるワーホリビザは、何でもできるメリットもありながら、何もしなくても良いというある種のデメリットも兼ね備えています。
だからこそ、ワーホリをするならば ”受け身” でいてはいけません。あらゆることを吸収するために、自ら動き出す姿勢が常に必要です。
それができれば、社会に出て一度立ち止まり、今の自分や将来に迷いが生じてしまった若者にとって、新たな価値観に出会えたり、自分を見つめ直せる良い機会になり得るはず。
「ワーホリなんて海外に遊びに行っただけ」と揶揄する人も中にはいるかもしれません。
しかしながら、独自の文化を築き上げてきたこの小さな島国では学べない文化や価値観が、世界には溢れていることを忘れてはいけません。
それを知ることができるのであれば、”遊び” でさえも、今後のあなたの生き方を左右する貴重な糧となり得るのです。